西南戦争での薩摩軍の足取りを追って、熊本市内から田原坂まで、史跡を探しながらランニングしてみました。

*西南戦争: 明治10年2月19日〜9月24日。明治になり全国の不平士族が反乱を起こすようになった。
その最後の戦いが西南戦争。戦場となったのは鹿児島県、熊本県、宮崎県、大分県。戦力は政府軍6万人、薩摩軍3万人。
戦死者は14000人。その4分の1が田原坂の戦いで亡くなっている。
「西南」とは都より西南で起こったかららしい。

スタートは熊本城。行幸橋横にある加藤清正像前。
午前9時出発。福岡の長野さんの計画で、私も同行してみました。気温は4度程度、天気はいいですが、風が超寒い。
●加藤清正像:薩摩軍は加藤清正が造った熊本城を崩せなかった。政府軍は加藤清正が造った田原坂の攻略に手こずった。


*二の丸広場: まずは「せごどんジャンプ(右写真)」。
私はどんなジャンプか知らず、いつものジャンプになってしまった(右)。とよとよさん(左)のジャンプが正解。

●「西南の役激戦地跡 碑」: 藤崎台球場南のトンネルの入口近くにありました。
県内には他にも「田原坂」「吉次峠」「木葉」「植木」「高瀬」「御船」「二重峠」と20近くの戦場があります。

右:北の出入り口「二の丸御門」が開通していました。二の丸広場へ戻ります。
●「西南戦争籠城将校家族避難 跡」: 二の丸広場の端(熊本城マラソンのゴール近く)にあります。
政府軍兵士の妻子達が弾丸を避けるため避難した場所。司令長官(谷干城)の妻を中心に負傷者の手当や慰問に努めた。


*加藤神社: 西南戦争では熊本城とともに、神社の大半が燃えてしまった。
加藤神社からの熊本城。右が崩落前、左は今。


●「明徳官軍墓地」: 植木街中の手前、明徳町。3号線から右へ入ったところ。
西南戦争にまつわる官軍墓地は県内に21ヶ所あります。
明徳町の墓地は「向坂の戦い」での官軍の戦死者123柱の墓です。

●「官薩両軍緒戦之地」: 植木街中。
この辺も、官軍・薩摩軍が衝突した所なんでしょうね。

●「植木学校跡(自由民権運動)」: 植木街中にある。
宮崎八郎を中心に自由民権主義者を養成した。しかし戦闘訓練が批判呼び補助金打ち切られ、半年で閉校。
西南戦争のときは薩摩軍と共に戦った。

●「千本桜 乃木大将記念碑」:植木から玉東へ左折したすぐの所にある。
官軍乃木少佐が第14連隊を率いて戦うが負けて千本桜まで退却。そのとき、殿軍(しんがり)を連隊旗手の河原林少尉に命じる。
しかし、この少尉は戦死して連隊旗は薩軍に奪われる。乃木少佐は責任をとり自殺を図りますが、部下から止められた。
このあと「河原林」の墓を偶然、見つけました。

●「七本官軍墓地(ななもと)」:ここには300名の戦死者が祀られています。
墓碑には階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出生地などが刻まれています。

墓碑の文字を読んでいたら、偶然!さきほど紹介した「河原林」の名前を発見。
「旗手」とも書いてあるので間違いありません。何かの縁?

●「七本柿木台場薩軍墓地」:薩摩軍の墓地もありました。
ここは全員まとめて一つの墓になっていました。周囲はきれいに清掃されており、官軍の墓よりきれい。

●「田原坂公園」:12時15分到着。スタートから約20km。相変わらず寒いです。
駐車場には10数台車が、テレビの影響でしょうか、客が多い。公園には売店はありません。
激戦の跡が生々しい弾痕の残る家(復元)も展示されていました。

官軍、薩摩軍の激戦の軌跡です。

●「熊本市田原坂西南戦争資料館」:入館料300円。3年前にオープンしたそうです。知りませんでした。
幕末から西南の役までの歴史の説明、映像・音・振動・ジオラマで戦いの様子をリアルに再現した体感展示、
実際に使われた銃や弾、古文書等の貴重な資料の展示があります。

展示に例の薩軍に取られた「歩兵第十四連隊旗」がありました。 旭日旗と同じですね。

官軍と薩軍の服装の違い。官軍は足袋かと思ったら、わらじでした。

ここから三ノ岳、半高山(はんこう)、吉次峠が見えます。吉次峠も戦場でした。


●「西南役戦没者慰霊之碑」:14000名の名前が書いてあります。
「西郷隆盛」の名前も、他の人と一緒に並べて書いてありました。

公園の奥に馬に跨った美少年像がある。台座には田原坂の歌詞が刻まれている。
「雨は降る降る 人馬(じんば)は濡れる 越すに越されぬ 田原坂
右手(めて)に血刀(ちがたな)左手(ゆんで)に手綱(たづな) 馬上ゆたかな 美少年」
薩軍の中には15歳位の少年兵も多くいたらしい。美少年とか彼らのこと。
熊本の酒「美少年」とは関係ありません。

●「田原坂」:熊本市と玉名市を結ぶ幅4m、長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂道。
ここで17日間の壮絶な死闘が繰り広げられ、3500名ほどが戦死。西南戦争で一番大きな戦い。
左:赤線。右:赤丸。「田原坂」は植木町豊岡一帯の地名でもあります。、

当時の田原坂の写真。今と全く違う。
この道だけが唯一大砲をひいて通れる道路幅であり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本まで進めなかった。
官軍にとっては生死を制する道であり、ともに戦略上の重要地で、この平凡な坂道が激戦の舞台となった。
写真を見ると木々がないが、木や葉っぱがすべてなくなるぐらいに銃弾が飛び交っていたそうです!
官軍は60万発の弾丸を放ったと言われています。

「三の坂」「二の坂」「一の坂」という標識がありますが、意味がわかりません。
カーブでもないし?坂が急になっているわけでもありません。

「二の坂」「一の坂」

坂の途中にあった「谷村計介」の戦死の碑。この人が馬上豊かな美少年と言われています。

坂の入口です。公園がありました。

名所旧跡には必ずある○○饅頭。やっぱありました「田原坂万十」。いきなり万十と一緒です。

●「豊岡の眼鏡橋」:熊本でもっとも古い(200年前)石で造られた橋。
西南戦争で政府軍がここを渡って行ったということです。

田原坂を下りて、国道208号線に出て、ヒライで昼食。午後1時半。
「ふれあいの丘交流センター」で入浴。ここで終了。27km、約6時間。

資料館で政府軍の軍服や薩摩軍の衣装、日本赤十字の看護士の衣装などを着て写真が撮れます。
一番かっこよかったのが軍服でしたので、これにしました。
今回、西南戦争についてはほとんど知識はありませんでしたが、とても勉強になりました。
まだまだ、見るところはいっぱいあるようですので、今度は下準備をして行きましょう。



トップに戻る